マウント
「マウントをとる」なんて言葉は昔は無かったと思う。「マウント」は「マウンテン」に由来し、要するに「お山の大将になる」という事だ。何かと他人に対して優位でいたいという願望が生み出す言動で、その為には知識をひけらかしたり、見下した態度を取ったり、命令口調になったり、まあどちらにしてもあまり印象の良い言葉ではない。
だが、還暦を過ぎて職場も定年退職した昨今、もしかしたら自分が一番気をつけなければいけないのが、この行為かも知れない。
「自分が若い時は…」「今の若造は…」なんて話をし出したらもうアウトだ。確かに昔は例えばオケでは怖い人にイビられたとか、いろいろあったが、その度に当時の自分は「こういうジジイに絶対なるまい」と思った筈だ。なのに知らぬ間に、そういうジジイに自分がなりつつある。ゾンビに噛まれてゾンビになるようなもので、恐ろしい事だ。
ではその心理はどういうところにあるのか?そしてそうならない為の対策は?
マウントを取ろうとする心の内側には「負けたくない」「馬鹿にされたくない」「見下されるものか」といった感情が蠢いている。裏を返せば自分に自信がないのだ。勿論これが全シチュエーションに当てはまるわけではなく、例えば指導者と生徒並みにレヴェルが違えば、或る意味「親切心」や「責任感」も伴ってくるかも知れない。昨年7月に、学生のオケの中に自分1人だけが入って演奏した「第九」では、管セクション内で自分はGフィルのメンバーとしてマウントを取らざるを得なかった。とは言ってもまあ、二言三言学生にアドヴァイスしただけだったが。
“取られる”方の身になってみると、やっぱり度が過ぎないよう気をつけた方が良いだろう。「度が過ぎないように」というのはつまり「あまり喋るな」「黙ってろ」という事だ。特に演奏に於いては、その人の経験値は喋らなくても演奏に表れる。周りはそれを聴くだけで「あ〜この方には敵わないな」と思うだろう。マウントなんか敢えて取ろうとしなくとも、これでもう充分ではないか。
…と、ここまではやっぱり理想論なのかなぁ。世の中にはそんな一筋縄ではいかない、厄介なマウンターが存在する。
許せないマウント
例えばとあるアマチュアの音楽愛好家。KOとしておこう。KOはとあるアンサンブルの一員だったが、音楽が好き過ぎて次第にマウンターになっていった。当然グループの中で軋轢が生じる。結局KOは10年以上居たこのグループから脱退し、別のグループに移籍した。
そしてその移籍先でも同じような事をし始めた。一見和やかなムードに見えても、KO以外のメンバーはかなり困っていると聞く。厄介なのは恐らく自分がマウントをとっているという自覚がないという事であろう。「自分にとって音楽は一番。音楽が大好き。だから自分の思うがまま音楽を楽しみたい」と考えるのは個人の自由だが、知らぬ間にそういったイデオロギーを他人に強要してしまうのかも知れない。
もっと厄介なのは、そのKOの楽器の技術がどうしようもなく下手だという事だ。「好きこそものの〜」という説は通用しない場合もあるものだ。尤も上手けりゃマウントをとっていい訳でもないが。ただ、プロと違ってアマチュアの団体はレヴェルに開きがある。
「自分が上手いからと言って何かというとイチャモンつけてくる」「威張ってて嫌な感じ」「ろくに音も出ない癖にデカい口叩く」「無視された」といった様々な訴えを実によく聞くのは、やはりこのレヴェルの開きにも何か原因があるように思えてならないが、結局のところ要は人間性の問題であろう。
アンサンブルでは自分のパートがメインメロディーになったり、伴奏役に回ったりする。伴奏役は特に主役を引き立たせる為に、ディナーミク・リズム・ピッチ等気を遣う。そういった相手への気遣いが必要なのがアンサンブルなのに、人間としての基本的な配慮に欠けるマウンターには、そもそも合奏なんかする資格があるのかどうか…甚だ疑問に思うのである。
許せるマウント
ちょっと話は変わるが、なんとも苦笑してしまうマウントネタもある。
例えば痛風とか、尿路結石とか、激痛の伴う疾患を経験した人。相当な痛みを耐え抜いたのか、ヒーローにでもなったかのようにその体験談をする。「お前らも一回経験してみ!」みたいな。冗談じゃないが、因みに尿路結石は自分も若い頃に経験している。
もうひとつ、雪国出身の人。都会に大雪が降り、人々が転倒しまくる映像をみると「トケー(都会)の衆はンな靴履いてンな歩き方すっから転ぶんだべナ」と途端にマウントを取る。ハイハイわかりました(笑)