オーケストラ,  藝フィルレポート

藝大フィルとの35年(その11)さよなら藝大

他にもつれづれなるままに思いついた諸々を挙げて、このシリーズの打ち止めとしよう。

楽員会

入団時に勧められて何となく入ったのが「楽員会」である。読んで字の如し、藝フィルの楽員による組織で「会員相互の親睦と共済を図る」という目的の下に集まっている。定例総会は毎年4月の年度初めに開かれ、定番の活動・決算報告の他、自由討論が繰り広げられたりする。労働組合ではないのだが、演奏活動上に問題が生じたりした場合は、それこそ臨時総会まで開き、決議したことを“上”に直談判などする場合もあり、記事「営業部長」がその良い例である。

他に何をしていたか?昔は「親睦」の方がメインだったようで、集めた会費で忘年会など開催していた。しかし会費はもっと有効に使うべきとの意見から、忘年会は廃止となり、慶弔見舞金や退職金として運用していこうという話になっていった。

前記事の通り、芸大フィルの団員はただの「パートタイマー」なので、こういった見舞金や退職金はとても貴重である。最初にこれを提唱したのは、確か“上司”のフルートH.Kさんだったと思うが、当のH.Kさんご本人は楽員会には入っていなかった。つまり、ご自身には関係ないのに他の楽員の為に親身になってくれていた訳である。お蔭で現在はこうして結婚・出産・産休・勤続etc.そして退職と、色々な機会にちゃんとお金が出るようになったのは、ありがたい事である。

1990年代半ばまでは、このような会報を発行していた。自分もこの原稿作りを手伝った事があるが、やっぱり部長が変わると事情も変わり、廃刊となってしまった。改めて読み返してみるとなかなか面白い。楽員の皆さんの近況に「へぇ〜」と感心したり、時々お偉いサンの話に思わず苦笑したり…。

つまり、当時はこういう編集を細々とやってくれる楽員の方が居た訳で、今はもう誰一人としてやらない。昨今はもう「紙」で配布する必要もないから、当時よりはずっと楽に配信できると思うのだが。

音楽の教科書

20年程前だったか、、教科書出版の大手:教育芸術社より、音楽の教科書に載せる演奏時の写真撮影の依頼が藝大オケに来た。当時「演奏委員」だった自分は、その各奏者を募る作業をしていたが、こういう時の返答は「私是非やりたい」と「私絶対イヤだ」と、ハッキリと2タイプに分かれるものだ。フルートは皆前者なので自分とA.Oさんがそれぞれピッコロとフルートで引き受ける。撮影はとあるリハの終了後に、奏楽堂地下の控え室で行われた。

「中学生の音楽2・3上」より

従ってこの教科書に載っている奏者は、自分も含めて全部芸大オケのメンバーである…と言いたいところだが、実はエキストラの大学院生も少し混ざっている。教育芸術社側としては、その辺は特に拘らなかった。但し教育的配慮から「載せる男女比は1:1にする」「茶髪はNG」「奇抜な装飾もNG」等の制約があり、クラリネットの女性はこれの為に黒く染め直したそうである。改めて考えてみたら、茶髪位はいいじゃないかと思うのだが…。

こうしてこれらの写真は、2005年から十数年間に渡って全国の音楽の教科書「小学生の音楽5年生」「中学生の音楽2・3年生」等で使用された。丁度自分の身内も使っていた頃で、これが元で地元の小中学校に演奏に行ったり、教えている子供バンドでサインを求められたり、教科書をネタにしたクイズ番組で映った事もある。

テレビ朝日系「Qサマ」より

藝大オケに居て良かったと思える数少ない事例の1つだが、現在はもう使われていないと思う。

エキストラ紹介タイム

Gフィルは一つのシリーズにつき、必ず1回エキストラ奏者の紹介が入る。大抵は本番の1回前のリハーサル開始時。例えばモーニングだったら2日目のリハ・定期公演だったら3日目のリハ。そこでインスペクターが開始前の諸連絡等した後「それでは今回の公演のエキストラの方々を紹介します」と始まる。「1st.ヴァイオリン〇〇さん」(楽員パチパチと拍手)「同じく△△さん」(パチパチ)「2nd.ヴァイオリン□□さん」(パチパチ)「フルート××さん」(パチパチ)……と、ご丁寧に全員紹介する。外部奏者も藝大生も全部だ。元々編成の小さいオケだから、ほぼ全シリーズ必ずこれがある。

ストップウォッチで時間を測ってみた。メイン・プロの交響曲程度の人数だと、大体平均してこれに1分半程かかる。もっと大きい編成だと2分以上はかかる。さらに大きい編成だと、弦楽器と管楽器に分けて2日間かけて紹介される。Gフィルの年間活動数は平均33シリーズ、単純計算で1年につきトータル50分位この「エキストラ紹介」に時間をかけている。

時間的に勿体なくはないか?

大人しくてフレンドリーなGフィルの楽員は、皆ご丁寧に感謝の意味を込めてきちんと拍手している。飽きっぽくて面倒臭さがり屋の自分は、長いといつも途中で拍手をやめてしまう。勿論わざわざ来てくれて有難いという気持ちではあるのだが…では、紹介されて立って皆に会釈しまくるエキストラの人達の気持ちはどうだろう?皆が皆「わざわざ紹介して下さって嬉しいです」という気持ちではないのかも知れない。「わざわざ紹介して貰って恐縮です」から「紹介して下さらなくても結構です」辺りまで引く人もいると思うし、実際そんな感じの人も結構居た。他のオケではさてどうなのだろう?

少なくとも自分が若い頃によくエキストラに行っていたオケでは、1つもそういう経験は無かった(現在は不明)。本番のパンフレット内のメンバー表にも当然名前は無く、完全に団員のみだが(某宗教団体が母体の吹奏楽団のは載っていた)、Gフィルの場合はご丁寧に「この人は外部エキストラ・この人は学生・この人は常勤の先生」みたいな印を付けながら全員漏れなく載っている。ただこのパンフレットについては、ここまで細かくなくても逆にGフィルを見習って欲しかった。例えば嘗てのTMSOなどは、正団員が降りまくって代わりにエキストラがどんなに沢山ソロを吹いても「あの人誰だろう?多分団員なんだろうな」で終わってしまうから、なかなか虚しいものがあったし。

このGフィルの“エキストラ紹介タイム”は昔からあった訳ではなく。2003年辺りから始まった。当時は給料の額は決まっている故、最早常識的範囲を逸脱して降りまくっている楽員が居たりしたので、多分それを阻止する意味もあったのかなと思う。つまりエキストラが入っていると「誰か降りているのかな?」と、ちょっと注意を引いたりするからだが、今は乗り降りは給料に反映されるようになったから、あまり意味もなさそうだ。

引き鳴らす 甲斐こそなけれ むれ雀
音聞き慣れて 鳴子にぞ寄る
(落語「親子茶屋」より)

という訳で、この鳴子も現在までトータル16時間40分も鳴らしていることになる。

墓碑

そして、この35年の間に多くの同胞の人達が旅立った。

2007年、ファゴットのJ.O氏は定年を迎える数年前より闘病されていたが、退職後間もなく他界。心から尊敬していた。
2010年、現役楽員のヴァイオリンのN.Hさんが急逝。彼女とはアンサンブルでも仕事して、とても楽しかった。
2022年、ファゴットのA.Y氏が急逝。あまりに突然だったので、未だに実感がない。今でも何処かで吹いているような気がする。
他にもOBOGで、ヴァイオリンのY.S氏・E.S氏・K.Yさん・K.Cさん、チェロのY.O氏・M.N氏他……未だ三十代でこの世を去った人のみならず、退職されて割と早いうちに亡くなってしまう方も多い。その一人ひとりに個人的な思い出があり、この上なく悲しくて残念である。

楽員外でも藝フィルにご尽力下さった方では
現役の部長だったチェロのY.H氏(1990)・指揮者の佐藤功太郎氏(2006)・若杉弘氏(2009)・作曲家の松下功氏(2018)・オケ連加入後初代団長のK.K氏(2022)…皆退官を待たずして逝ってしまった。お礼の言葉を捧げる機会もなく。。。

これまで生前お世話になった総ての方々に、心から感謝の意を示したい。

それにしても皆若過ぎる。それに何だか多くないか?

さよなら藝大

何度でも述べるが、フルートセクションが自分と前首席奏者A.Oさんとの二人体制だった2010年からの約10年間が、藝大フィルでの仕事として最も充実していたと思う。周囲のレヴェルも本当に高かった。だが定年間際の或る日、ふと周りを見ると、例えば木管セクションなどは最早新人とエキストラが入り混じって「ここ何処!?」という状況だった。馴染みの仲間は皆降りたり辞めたり死んだり(!?)して、ジジイ(←自分)がポツンと独り目立っている。上手い下手は別として、これまでのGフィル木管サウンドとはほど遠くかけ離れていた。

それでもこんなザマになるまで何とかこのオケに踏み留まっていた一番の理由は、必ず藝大フィルは明るい未来が開けるだろうと信じていたからで、その願いはある程度は叶ったと思う。だが一方、これまでの記事にもあった相変わらずのネガティヴな部分に対する鬱憤も蓄積し、我慢も限界に達してきた。達してきたところで丁度定年を迎えた訳である。

今や他のプロオケに限らず、殆どの職場は定年が延長されている。藝大フィルだけは昭和の制度のままを引きずっていて60歳で放り出される。まだ使えるのに取り替えるなんてSDGsを知らないにも程があるが、かといって「もっと居させてくれよ」と誰も声をあげないのは、もうここは懲り懲り!と皆思うようになるからだろう。本当にそういうオケなのだ。「その1」でも述べたが“降ろされ番”で給料が減るオケなんて他にあるだろうか?かといって減給覚悟で降りようとすると、やれ「降り番申請」だの「会議で承認」だの…要するに日本一ブラックなプロオーケストラだと自分は思う。空きがあると入団オーディションに何も知らない人たちが「定職」を求めて受けにくるが、長い目で見ればフリーランスで少しずつ活躍の場を広げていく方が、遥かに良いのだという事を広く教えてあげたい。

 

さて、今はまるで長年の便秘が解消されたような爽快感に満ちている。当分の間は藝大どころか、上野界隈にすら近づきたくない。もし過去の記憶を消す事ができるなら、このオケに在籍していた事をまるまる初期化したい。「藝大フィル?ああそういえばそんな所にいたな〜」と懐かしむ日はこの先あるだろうか?

…………………ないと思う(了)

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