思い出

敬愛する我が師匠(2)〜壮絶な戦争体験

毎年8月6日の朝8時、この日のNHKは朝ドラでなく、広島市の平和公園からの中継がある。言わずと知れた原爆の平和祈念式典である。
式典の最中、ずっと後ろでバンドがBGMを演奏しているが、この曲の曲名は「哀悼歌」作曲者は他でもない、川崎優先生である。先生自身、昭和20年8月6日の朝8時15分にまさに爆心地から僅か1.5kmの所に居た被爆者の一人であった。
先生の左耳の後ろに焼けただれたような傷跡があり、自分も学生の頃からそれが気になってはいたのだが、間もなく先輩にそれが被曝した時の傷と知らされ、ショックを受けた次第である。

献花式には在りし日の平和祈念式典でのスナップが展示されてあった。

川崎先生のお父上は、田谷力三や三浦環等と共に活躍したオペラ歌手であった。優先生は東京生まれであったが、折しも日本は軍国主義時代となり、お父上の故郷である広島〜再び東京〜そして中国の奉天に移り住む。「作曲家になりたい」と思ったのはその頃であった。「作曲家になるには、何かの楽器のエキスパートであった方がいい」というお父上の薦めでフルートを始め、翌年東京音楽学校フルート科に入学したそうだが、このお父様のアドヴァイスは流石その通りだなと思う。入学後は同時に作曲も諸井三郎氏の下で学んだそうだ。

入学して2年目の時に、優先生は陸軍の軍楽隊に志願したが、近視が原因でそれは叶わず、その代わり一般兵として広島に配属される。その後韓国に飛ばされたり、戻らされたりだったそうだが、その間の厳しい訓練と上官の“しごき”は想像を絶するものだったらしい。遂に先生は身体を壊してしまい、陸軍病院に入院、退院後も1ヶ月程広島の親戚の家にて療養する事になったが、そこで「運命の日」を迎える事になる。

原子爆弾によって家はめちゃめちゃに壊れ、優青年は瓦礫の下敷きになってしまった。何とか助けられて一命は取り止めたものの、左耳の後ろに深い傷を負ってしまった。放射能による白血球の減少のせいで傷は化膿してしまい、その後もケロイドに悩まされた。そして周囲は何処もかしこも、まさに地獄絵図の様だったそうだ。
兵役生活と原爆とで、身も心もボロボロになってしまった若き青年を引き取って療養させてくれたのは、親戚の農家だったそうだ。

そうして日本は敗戦し、戦争は終わった。川崎先生は日に日に回復し、遂に東京音楽学校に戻る事ができた。悪夢のようなブランクを乗り越えて、復帰後も必死で勉強し、晴れて卒業。その後、アメリカ留学などの経験を経て、芸大フルート科の講師となった。
その生徒の恐らく初代に当たる方が、元N響奏者で、東京音大の学長も務められた植村泰一先生であり、最後の生徒は定かではないが、4年間しっかりついたのだとしたら、それは多分湯本洋司だと思う。
レッスンの傍ら、川崎先生は大学のオーケストラでも吹いていた。そう、現在自分の所属する現:芸大フィルハーモニア管弦楽団の大先輩でもあるのだ(因みに在籍していたのは昭和25年位から約10年間。自分が生まれる前の話である)。

15年程昔だったか、先生との会話で「湯本クン、僕はこの間ね、漸くね、原爆症が治ったんだよ〜」と嬉しそうだったのを記憶している。聖路加病院で耳の裏を綺麗に治療してもらったそうだ。計算してみると被曝から60年後ということか!
あまりに酷い体験故か、昔は先生は戦争や原爆の事を自らはお話しされなかった。このような事実を知ったのは、割と最近の事である。

だが!復帰後の川崎先生は特に作曲家として、国内外を問わず堰を切ったような大活躍だった。当然フルートや吹奏楽曲が圧倒的に多く、奥様がヴァイオリニストなので弦楽器の曲も多い。
そうこうしているうちに門下生も増え、そうなるとフルートアンサンブルを結成し、オリジナル曲を作り、自らタクトを取るというのも、至極自然な流れだ。自分もそれに加わって、幾度かコンサートに出演させて頂いたりするようになった。
(次記事に続く)

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