オーケストラ,  作曲家・作品,  藝フィルレポート

100曲

藝フィルの「モーニングコンサート」では、年に4曲ほど作曲科の学生によるオーケストラの新作が披露される。本日の公演でもその一つを演奏してきたが、数えてみたら今日のこの曲が自分にとってのモーニング新作の丁度100曲目という記念すべき作品という事が判明した。

30年余年の間でこんなに演奏してきたのかという思いであるが、降り番もあったので、実際はもっと沢山演奏されている筈である。とにかくこんなに沢山演奏してきたのに、何がどんなメロディーだったか?というのはものの見事に1つも憶えていない。多分今日の曲ですら、来週には全部忘れてしまうだろう。

クセのすごいネーミング

自分が最初にこのシリーズで吹いた時は未だ団員ではなく、大学院生としてエキストラ出演していた頃だった。また当時は「モーニングコンサート」の一環としてではなく、「作曲科作品発表」として2週程集中して開催されていた。

その記念すべき1曲目は「海,深い夢」という曲名。勿論内容は何も憶えていない。作曲科の新作発表は大抵単一曲で、楽章が分かれているとかはまずない。時間も大体10〜20分位か。そしてこのように、たまに何かクセのある表題が付いていたりする。

他には例えば
「消尽点」「フィグラ」「ノマドロジー」「蒼穹の闇」「カンディンスキー『薔薇色の階調』画讃」「憧憬のカスターリエン」「パンチュールポエム」「アニティア〜回帰と転生」「砂城の幻影」「人が人でなくなる時」「恒河沙」「PARA-NOIA」「Undulation」「and yes,I said yes,I will yes.」「I was born」「Émergences-Résurgences」「Urbi et Orbi」「ダンシンタイガース〜TORAリズム」
…そして今回の100曲目が「コーラ〜(非)都市的音響空間」という極め付け。よくまあ、こんなマニアックな名前が思いつくものだ。将来の我が子への命名がちょっと思いやられる。
それでも20年ほど前までは「ラプソディー」とか「幻想曲」とか、普通の名前が着いていたようだが、所謂作曲科の教官の世代が変わってきた辺りからこんな感じが蔓延ってきたようである。しつこいようだが、本当に内容は全然憶えていない。要するにどの曲も同じ印象だった訳だ。

で、具体的にどんな印象かというと、まあどの曲も「キーン」「ブォ〜」「ピピピ」「ガシャーン!」「シュワシュワ」等という、よく漫画でセリフの吹き出し以外に書かれている効果音みたいな感じ。最初から最後までずっとだ。指揮者が降り終えて振り返るまで、曲が終わった事が全く判らない。

例えば武満徹氏のオーケストラ曲には、そこここにとても美しい響きが鳴っていて、それ故吹き終えた(聞き終えた)後の余韻が心地好い。そのお蔭かどうか、武満氏も曲名が凝っているが、それが気にならなくて寧ろカッコ良く感じる。

これまでの100曲には、残念ながらそういう瞬間が1秒もなかったと記憶している。100人の若者達がその瞬間を目指して様々な試行錯誤を繰り返しながらも、悉く玉砕していった感があるが、しかしながら自分はそれで良いと思う。Gフィルはそれを糧にして成長してもらう為のオケであるから。

クセのすごい楽譜

この30余年の間、コンピューターによる記譜というのも随分と発達してきた訳で、今や殆どの新曲パート譜はパソコンによる綺麗な清書である。スコアができたら、実質パート譜も殆ど出来ている状態だが、それ故起こる問題については「危険な音楽」の記事等で記した。記譜技術の発達と同時に、昨今は所謂「特種奏法」についても、その種類も少しずつ増えてきたような気がする。

詳しい奏法解説は割愛するが、微分音やフラッターやキィ・パーカッション等については、既に50年以上前からなされている奏法であるが、それに加えて「スラップ・タンギング」「タング・ラム」「ホイッスルトーン」「ジェットホイッスル」等も頻繁に使われるようになってきた。作曲者によってはそれだけではもの足らず、発声させたり、わざと汚い音を出させたりと、いろいろな可能性を試みてくる。微分音についても普通は半音の更に半分の幅で高い低いを要求してくるが、ある曲で「6分の1音高く」と書かれているのには閉口した。

持替えについてもまた然りで、ピッコロやアルトもしくはバスフルート程度ならまだしも、下手するとスライドホイッスルや警笛まで吹かせてくる。Gフィルはまだ優しいからこれで済むが、他のプロオケなら怒って投げつけられそうだ。

とまあ、これはフルートパートに限った話だが、いざ曲が始まると、他のパートからも様々な面白い音が聞こえてくる。

頻繁に聴こえるのが金管群の息だけの「シュー」とか「ブゥワァ〜」とか。次に打楽器の、特に金属系の音。アンティーク・シンバルとか、ヴィブラフォンを弓で擦る音とか。そして次に弦楽器のバルトーク・ピッツィカートとかスル・ポンティチェロ奏法とか。どれもその音楽的効果を追求する作曲者の意気込みが感じられるが、下手すると楽器自体に悪い影響を及ぼさざるを得ない場合もあり、オケの運営委員会レヴェルで問題になった挙句却下された事もあった。

今後の新作展の展望

こうして顧みると、オケの現代音楽もある意味行き着く所まで来たのではないか、と思ったりする。果てしなく長い音楽史の中で、たかだか30年間だけの考察だし、増してや年端も行かない若者による試行錯誤によるものだから、そんな事は言えないのかも知れないが、かつては例えば1900〜1930年の間にドヴォルザークが亡くなり、ラフマニノフがピアノ協奏曲を作り、ストラヴィンスキーが「火の鳥」を作り、山田耕筰が「この道」を作り、シェーンベルクが12音技法を生み出し、そして武満徹が生まれている。世界的にはもの凄い変化があった。その中で数々の感動が生まれ、世界中の人々の心にそれが刻み込まれてきた。今の新作には自分の心に響くものが残念ながら未だない。だが最早これについては、そういうものだと割り切っている。作曲科とはそういう科であって、そこから成長していく為の過程であるから。

もうひとつ、これだけ吹いてきて解った事がある。それは駄作ほど作者の説明が長いという事だ。