俗世から離れた空間
クロスクラブコンサート
久しぶりに足を運んだこの大田区久が原にあるこのサロン、この日は作曲家でピアニストのYさんによるソロリサイタルで、嘗ては自分も出演した事がある。この日はオーケストラの名曲、そして氏のオリジナル作品がそれぞれ数曲演奏された。
チャイコフスキー:バレエ音楽「眠りの森の美女」よりワルツ
誰もが一度は聞いた事のある大変有名なワルツであるが、その導入部の演奏には度肝を抜かされた。同じチャイコフスキーでも「白鳥の湖」第1幕のワルツのそれではないか。そのまま進むのだとしたら曲が違います調も違いますと指摘したいところだが、テーマからはさりげなく「眠り」に突入。Yさんはバレエというそもそもの踊りの概念から逸脱し、メロディーの横の流れを重視した弾き方でふわふわとした、また別の味わいのあるファンタジックな舞曲を披露して下さった。ふと、スウェーデン発の大型家具チェーン店内にあるレストランのメニューのひとつで、イチゴジャムとマッシュポテトが添えられたミートボールというディッシュがあるが、それを食べているような感覚に襲われた。
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界」より第2楽章
クロスクラブでは思い切り“昭和”が味わえる。何と足踏みオルガンがあるのだ。それも2台。メンテナンスはどうしているのだろう。今にも壊れそうな、木造校舎が目に浮かびそうな音色だ。Yさんはこれでこのアダージョを演奏するが、オルガンは発音に必要な空気圧を(現在はモーターだが)足踏みによる吹子で発生させるので、長く夢見るようなフレーズの中にもキコキコとペダルを上下する音が薄っすらと混ざる。優雅に進む白鳥が実は水面下で懸命に水かきを前後している様子を彷彿とさせるが、楽音よりもこの音が“昭和”には不可欠だ。自分は多分この木造校舎&足踏みオルガンの最後の世代だと思うが、間もなく平成さえ終わりを告げる昨今、曲や技術はともかく、このキコキコはとても貴重な鑑賞経験かも知れない。
ムソルグスキー:交響詩「禿山の一夜」
Yさんご本人作のイメージ画
この日のメイン・プロだった。3管編成の大オーケストラによるこの凄まじい交響詩をたった一台のピアノと10本の指で一体どのように再現するのか?この曲は自分も子供の頃から大好きで、当時冨田勲氏によるシンセサイザー版まで面白くて何度もLPを聴き返し、勿論オケでも演奏経験があるだけに、細部までいろいろ知っている。
終始動物のように聞き耳を立てていたその結果解った事は、やはりこれもYさんの解釈による独特の世界であって『ムソルグスキーの交響詩禿山の一夜』という曲として聴いてはいけないという事だ。冒頭のヴァイオリン群による細かい3連符は3連符でなくともその不吉な生温い微風の雰囲気が醸し出さればそれで良く、間もなく現れる低音群による魔王のテーマは敢えてトレモロにしてメロディーの輪郭よりもオドロオドロしさの方を優先している。
交響詩といえどもムソルグスキーは物語の進行と同時にしっかりとした楽式をこの曲に確立していて、これを原曲に忠実にピアノで再現することは出来なくはないが、出来たら出来たでただのスコアリーディングで終わってしまう。Yさんはリスト並みの超絶技巧の伴うこの曲のそういう所はサラッと躱してあくまでも『Y氏の禿山の一夜(ムソルグスキーの素材による)』として聴衆を引き込んで行ったのである。終わった後のお客さんの口をポカンと開けた表情も自分は見逃さなかった。全く見事としか言いようがない。
さてアンコールは「リクエストにお応えして…」と仰っていた。リクエストできるのか。自分も何かお願いすれば良かったかなァ、やはりこの曲の後だから同じムソルグスキーでも「展覧会の絵」の(如何にもYさんに合いそうな)「古城」あたりかなと思っていたら、何とフランク永井の「有楽町で逢いましょう」⁈お客さんは待ってましたとばかりに盛り上がり、中には演奏と一緒に歌う人も。ご年輩の方が8割程占め、まさにこの唄の世代だけあって、この日のコンサートで最もサロンが活気付く瞬間であった。
聞けばYさんは、若かりし頃にキャバレーでこういうBGMを弾くアルバイトをかなりされていたのだという。チャイコフスキーもムソルグスキーも禿山の夜明けと共にどっかに飛んでっちゃった感じだ。だが、たまにはこのサロンコンサートも、クラシックは全部飛ばしてこのような懐メロで統一して頂くのも楽しいかなと思うのである。
コンサートの休憩時間、そして終演後にはクラブクラブの中庭に出て、3本の大木(桜、アカシア、コブシ)が織りなす四季の移り変わりを愛でる事ができる。お客さんはこれらをとても楽しみにしているようである。この日は良く晴れて、日差しが暑かったが、爽やかな五月の風が緩く吹いていた。
Yさんご夫妻もお元気そうで何よりである。末永くご健康で過ごせますように。
都内ながらも俗世間から一瞬逃れられる空間。ホンマ是非また、行けたら行きたい。