思い出

麻呂

何年か前までは届いていた高校時代の恩師からの年賀状(一部)。
昔っから思っていたのだが、国語の先生だけあって、毎年毎回達筆過ぎて自分には読めない。何て書いてあるんだろう?
…このお方、恩師は恩師でも担任の先生であった。1学年につき40名程しかいない我が母校では、3年間同じ先生が担任を受け持つことになっている。つまり、3年間まるまるこちらもお世話になった訳だ。その雅(みやび)な面立ちと喋り方で、生徒達の間では「麻呂」と呼ばれていた。
今思えば、高校時代の我々はつくづく幼かった。赴任以来初めて担任を持ったのが我々のクラスだったそうで、恐らく40代半ばの歳であったマロにとっては、さぞかしこの若いガキ共に手を焼いただろうと思う。
先述の通り国語の先生なので、マロには音楽の専門的な事は教わらなかったが、専門実技の先生(つまりフルートの師匠)と連携していて、実技の成績が悪かったりするとよくハッパをかけられたものだ。
一方、自分がちょっと手首を痛めたある日、午後のレクレーションを休んで帰ると告げたら「欠課が付いちゃうから見学だけでもした方がいい」と言って、マロは自分の腕に包帯を巻いてくれて見学させてくれた。確か「欠課=授業を欠席する事」が3つ以上付くと、皆勤賞が獲れないのだ。お蔭で卒業時に皆勤賞を貰うことができた。そんな諸々の事に、今更になって感謝している。
卒業して20年程経ってから、我々のクラスは同窓会を毎年開くようになった。自分達が当時のマロの年齢になり、そしてその分マロも歳をとった。徐々にお身体も弱くなってきたようだが、それでも教え子達の演奏会には足繁く聴きにいらしてくれた。
2014年夏。この年の同窓会まであと1週間となったある日、マロが倒れたとの連絡が回り、残念ながら恩師のいない会となってしまった。その後マロは施設に入居し、クラスメイト達はしばしば慰問演奏等していたようだ。
そして今年。同窓会のお知らせとほぼ時を同じくして、マロご逝去の連絡が駆け巡った。葬儀には嘗ての教え子達が沢山駆け付け、お斎の席は何だか喪服を着た同窓会みたいになってしまった。ウチの学年は皆本当に仲が良い。恩師を偲んだ思い出話に、時には笑いさえ起こったその集いを、満面の笑みでマロの遺影は見つめていた。
マロ…三浦道雄先生には本当にお世話になり、今でも感謝の念に絶えない。ご冥福を心より祈るばかりである。

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