平成を振り返る〜藝大フィル

自分がGフィルに入団したのは1988年。まさに昭和の末期だ。つまり平成の30年間は、自分にとってGフィルの30年間でもある。入団して最初の仕事がオペラだったが、丁度その頃、時の天皇陛下がご病床に伏せられた。世の中はこの時、「歌舞音曲の自粛ムード」となる。このオペラ公演さえ開催が危ぶまれたが、それでもオペラ科学生の大切な発表の場という事で、公演決行。当時のG大音楽学部長さんが開演に先立ってステージにて挨拶し、お客さんにその旨を述べられていた事を憶えている。

そして翌年、昭和天皇は崩御し、元号は「平成」となった。それからのGフィルの30年間は、大きく4つの時期に分けられると思う。

【第1期 入団、そして修行】
当時Gフィルは3管編成だったが、Fl.の首席奏者だったKさんはとても“ピッチ”に厳しい方であり、“下吹き”の自分はとにかく合わせる事に神経をすり減らしていた。そんなKさんが或る日、「ピッチなんてそんなに気を遣わなくてもいいんだよ」なんて意外な事を仰っていたが、今思えばそれは、自分が合わせる事ができてきたからこそのお言葉だったのかなと思う。
それはそうと、オケはKさんだけに合わせればいいってものではない。Kさんのさらに向こう側や、後ろにも気を遣わなければならないのだが、たまに1stの出番が回ってきたりすると、周りはもう20歳位年上だし、針の筵状態である。そんな必死な毎日のまま、あっという間に5年が過ぎた。

【第2期 2管時代の始まり】
平成6年。その年の秋季定演を以て、Kさんは退団した。それからフルートパートは2管編成の時代が長く続く。早くもう一人補充して欲しかったが、当時の運営陣はなかなか首を縦に振らず…8年もの間補充されなかった。
漸くオーディションが再開され、新人が入ってきた訳だが、このブランクで知らず知らずのうちに、フルートの同僚のOさんとの間にできた“鉄壁のセクション・サウンド”に溶け込むのはなかなか難しいようで、8年間の重みをひしひしと感じた次第である。実際、この後新人が入っては辞め入っては辞め、そうこうしているうちに他のパートも定年等で人数が減り、結局全木管パートが2管編成になってしまった。これは“お上”の予算削減に因るものである。

【第3期 奏楽堂ができた】
平成10年に大学敷地内に新奏楽堂が開館し、それまでGフィルは他のオケと同様、東京文化会館・東京芸術劇場・五反田ゆうぽうと等にて出演してきたが、これ以降はリハも本番もこの奏楽堂になった。専属のホールがあるというのは好い事である。但し、Gフィルの、ではなくて大学のホールであるから、勿論好き勝手に使い放題という訳にはいかない。大学のカリキュラムに沿ってスケジュールが組まれるので、時にはリハの開始が夜になったりする事もある。
従って、学生オケや吹奏楽も、邦楽科の演奏会も、学生の卒業演奏会も、そして附属高校のオケも総て会場はこの奏楽堂だ。勿論入学式も卒業式も。
因みに旧奏楽堂は、大学の隣の上野公園内にひっそりと立っている。今でもコンサートには使われているが、現在は改修工事中である。

平成27年 「創造の杜」コンサートGP

【第4期 オケ連に入った】
Gフィル130年の歴史の中で、一番大きな変化がこれであろう。「日本プロオーケストラ連盟」に準会員として加盟し、名称も「藝大フィルハーモニア管弦楽団」と変わったのである。そうなると運営陣のシステムも変わり、「事務局」が設定させる。そして、学外に向けてどんどんアピールが始まっていく訳であるが、いきなりその代表的な仕事が一昨年のチリ公演であった。ヨーロッパ・アメリカ・そしてアジアにツアーに行く日本のプロオケはよくあるが、南米というのはあまり聞いたことがない。実は再来年以降にもそんな話がちらほら聞かれ、「南米専門」みたいに揶揄されそうである。
それはともかく、この30年でメンバーも他のオケ同様殆ど入れ替わり、自分も古株になった。同時に何と、新奏楽堂さえも大規模メンテナンスの時期が迫ってきた。Gフィルにとっての「平成」は、まさに変革の時代であった。


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