追悼・前の主人(あるじ)

自分が今使っているフルートは、今から50年余り前に作られたヘインズ社のハンドメイドモデルで、スタジオプレーヤーのS氏から譲り受けたものである。

今から26年前のその楽器の引き渡しの様子は、今でも強烈に憶えている。場所は都内某スタジオ。どうやら劇団四季のミュージカル用BGMのレコーディングだった。普通なら外のロビーか何処かで引き渡されるかと思いきや、S氏はスタジオの中まで入って来いと言う。当然録音中だから、氏の隣で待っている間は物音ひとつ立てられない。

今でこそ殆どのスタジオ内は禁煙となっているが、当時は吸い放題、煙も吐き放題なので、ブース内はさながら室内焼肉状態。非喫煙者にとっては地獄である。S氏も相当のヘビースモーカーで、ひとくだり吹いてはタバコを吸い、煙を前の譜面にブワッと吹きかけながら仕事している。

それまでにスタジオ録音の仕事はしていない訳ではない自分だが、こんな煙たい状況は初めてで、ちょっとしたカルチャーショックを受けた。

その時S氏は黒い楽器を吹いていたのだが、よく見ると木管ではなくて、真っ黒に変色した銀の楽器だった。で、どの楽器を譲ってくれるのかなと思っていたら…氏は録音が終わってその黒い楽器を掃除してケースにしまい込むと、そのケースを徐ろに「はいコレ」と自分に差し出したのであった。

ええっ⁈今吹いてたこの小汚い楽器を買うの⁈ローンまで組んだのに。

釈然としないながらも、多分銘器なんだろうなと、相当の額を支払い、我が家へ。

家でケースを開けると、ヤニの悪臭がモワッと広がり、部屋中に立ち込める。こんなのがオレの楽器か?すぐに修理屋にタンポ全交換とクリーニングをお願いする。

でその後、このヘインズが自分にとってかけがえの無いパートナーになるまではひと悶着もふた悶着もあった。勿論現在は、他のどの楽器も受け入れ難い程だ。S氏もなんて素晴らしい楽器を譲ってくれたんだろうと、この運命の出会いに感謝している。

風の噂では、S氏はその後このヘインズを売ってしまった事を後悔していたそうだ。これをきっかけにちょいちょい彼から録音の仕事のおコボレを頂戴するようになり、例の煙たい部屋で彼の隣りに座って吹いては、自分の奏法になんやかんやとイチャモンを付けられた。どうやら教えるのが好きなようだ。何かあったらその楽器を買い戻すとまで言われたが、折角綺麗に蘇ったマイヘインズを再び煙地獄に戻すなんて、まっぴら御免と内心は思っていた。

そんなS氏はもうこの業界では超ベテランで、彼の事を知らないスタジオプレーヤーは居ないだろう。テレビをつけると必ずといっていい程何処かS氏の笛が聞こえてくる筈だ。だが彼が今春他界したという事はあまり知られていなかったようだ。お葬式も多分ご家族だけでひっそりと済ませたのだろう。自分も半年近く経ってようやく知らされた次第である。

S氏の音楽のスタイルは決して派手にはならず、あくまでも端正で控えめで、それでいてとても聴く者の心に訴える何かがあった。録音という仕事は演奏会と違って、NGを出した場合の修正が効く。という事は、裏を返せば修正しなければならないので、できるだけNGを出さない方がいいのだ。そんなえもいわれぬ緊張感がスタジオ内にそこはかとなく漂う。タバコを吸ったり(近年では麻薬で捕まるミュージシャンも問題になっているが)するのは、そんなストレス解消の手段のひとつなのかなと思う。

だがどんなに優れたプレーヤーでも、やはり譜面に煙を吹きかける行為は自分としては軽蔑に値する。彼の死因は聞いていないので知らないが、思うに元凶は結局のところタバコの吸い過ぎであろう。なので大変申し訳ないが、自業自得という印象が拭えない。これからも更に味のある音楽を奏でられた筈なのに、なぜもっと自分の身体を大切にできなかったのか…至極残念である。

釈然としないまま……Sさんのご冥福を祈るばかりである。


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