生身の人間の演奏とコンピュータによる演奏

自分がオケ・プレイヤーとなってそろそろ27年、これまでに沢山のオーケストラの為の現代音楽や書き下ろし新作を演奏してきたが、今日演奏したのはその中でも最低ともいえる作品であった。

曲の最初から最後まで、急速な反復のパッセージのみという機械的な動きを、全パート徹頭徹尾繰り返すのみ。ここまで酷悪だともう自分はもとよりオケ全体が、いや指揮者まで呆れ果てている始末。練習中は自分の周りで、あちこちから文句や愚痴や舌打ちが聞こえていた。

だがコンサートのプログラムとしてもう出されている以上、何とか本番までには形にしなければならない。リハーサルを重ねるにつれ、ようやくリズムの要領が解りかけてきたが、解ったところでどうしようもない無力感が漂う。何の意味もない。

しかし、どうやらこの「機械的な動きに何の意味も見出せないという事」を作曲者は狙っていたようだ。でも実はここに「無意味」という意味が生じてしまう。このパラドックスの事は取り敢えず置いといて、そもそも無意味な事を大人に演らせたりお客さんに聞かせたりしようとは、つくづく無礼な作曲者である。

演奏前に作曲者自身によるそんな解説があったが、駄作であればある程、話もダラダラと長いものだ。オケはそれでも力の全てを振り絞って精一杯演奏したのだが、結果的に本番でのお客さんの反応は冷ややかであった。

彼はこの曲をコンピュータで作曲したそうだ。とはいってもどの程度まで人間の手が入っているかは、自分には判らない。完全にコンピュータだけに任せちゃったのか、或いは元譜は自分で考えて、パソコンで音符を入力したという意味なのか?

後者だとしたらもの凄い労力だ。それはそれで偉い。よくこんなに書いたものだと思う。だが、どんな楽譜であれ、パソコンに入力してしまえば簡単に演奏できてしまう。作った物をパソコンに演奏させてほくそ笑む彼の脳裏には、もはや人間がこれを演奏するという事はかけらもなかっただろう。

こういう経験は実は自分にもあるので、その胸中は面白い程よく解る。作編曲を同じくパソコンを使ってやっているので、一体どんな音になるのかは画面上にある「play」ボタンを押せば、立ちどころに打ち込んだ音を演奏してくれるから、すぐに確認できる。だが、例えばピアノ譜なんかの場合、これを実際に弾いてみると意外ともの凄く弾きにくかったりする。「あ、ヤバい」と慌てて直したりする次第だ。

だが!単純に演奏し易い、しにくいという問題だけではない。生身の人間が楽器で演奏するというのは、その時点でもう音符に何かしらの魂が込められ、ある種の波長となって聴く人にそれが伝わっていくものだ。そこに機械と人間の決定的な違いがある。

作曲者はそのダラダラした前振りの中で、こうも喋っていた。「音楽によって本当に何かを伝えることができるのか?それに疑問を感じてこの曲を作った」と。やはりパソコンだけで音楽を作ったり演奏させたりしているからこそ発せられる言葉だ。こういう人間に自作を演奏してもらう資格はもはや無い。一生機械と付き合っていれば良いのだ。

大方、自室の画面の中に「恋人」でも飼っているのだろうか…

 


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