不滅の魂(前編)

ここ1週間の間に、知人・または知人の親御さん等の訃報が連続して3件あった。こういうのは妙にバタバタと続くものだ。

葬儀に参列し、祭壇をまじまじと見つめる。沢山の花に囲まれた遺影、そしてその前にデンと置かれた棺桶…

歳のせいか親を亡くしているせいか、最近こういうのを見るとつい自分に当てはめて考えてしまう。自分が死んだ時はどうしようかな…なんて。

昨今ちょっと心に引っ掛かるのは、告別式の最後で棺桶の蓋を開いて遺体の周りに花を詰める「お花入れ」の儀式、あれってどうよ?

0518SCAN_0009

儀式自体はあってもいいと思うが、(失礼ながら)死化粧を施されても、はやり生きている時とは別人のようになってしまったご遺体を、バッと公衆の面前に晒すのだから、何というか…他人である自分には(仮によっぽど親しかったとしても)ちょっと拝見するのは抵抗感がある。

まあ、死んでしまったら意思も感情もへったくれもないので、故人そのものは痛くも痒くも恥ずかしくも何ともないだろう。だが、ご遺族の中にはこの儀式に、もしかしたら一寸引いてしまう感情も少しはあるのでは?いやその前に、故人と全然喋ったこともない、仕事上の付き合いで参列した赤の他人の立場にとっても、それこそ遠慮してしまう人もいるかも知れない。だが!参列したからには一応お花を入れるのが礼儀なのである。

最近は家族のみで密葬(つまりお花入れも身内のみ)、そして後日お別れの会とかをする話も聞くが、なる程!と思う。

因みに自分の父方の祖母の場合は、既に荼毘に付されてから葬儀があった。沢山の花に囲まれた遺影、そしてその前にちょこんと置かれた遺骨。こういうお葬式もあるのだな。

ところで昨日参列したのは、あるフルーティストの葬儀であった。生前の彼のお弟子達が、涙ながらにフルートのアンサンブルを2曲程演奏していたが、それは故人の意思によるものだそうだ(曲目まで指定していた)。人間は医学的には、死んでも聴覚だけは最後まで残ると言われている。もしかしたら故人の耳にその笛の音が本当に届いていたかも知れないと思うと、さぞかしご本人は満足して天国へ旅立たれたであろう。

その上で自分はつくづく思った。

自分は密葬で良い。というか葬式は要らない。別れの会とかも何もして欲しくない。ただ、自分の方からお付き合いさせて頂いた人達への感謝の意は何かで表したい。そういう意味では、死後も自分という人間がどのように後世の人達の記憶に残して貰えるか?

という訳で、この話は後編に続く。

 


カテゴリー: 感想・意見, 日常・趣味 タグ: , パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください