「本」になっていない楽譜を使うということ

昨日、友人達との飲み会で、こんな話があった。

「最近の生徒はお金がないからと言って、ネットでダウンロードした楽譜をプリントアウトしてさらっているし、レッスンにもそれを持って来ている」

…確かに楽譜って高い。曲や出版社や希少価値とかにも因るが、薄っぺらくても何千円かしたり、教則本の分厚いのだと1万円を超えたり。

それでも、ひと昔前よりは大分安くなった。版権が切れたせいか、オケのスコア等はDover社等から続々と廉価版が出るようになって、自分も嬉しい思いをしている(もうちょっと待てば同じ曲がこんなに安く手に入ったのか、と悔しい思いもしている)。

ところが現在!ネット上ではオケやオペラのスコアからソロまで、幅広く楽譜が揃えてあり、それらを自由に閲覧できてしまうサイトができている。勿論プリントアウトも可能。しかもタダだ。(=「ペトルッチ楽譜ライブラリー」とか)

実はこれには自分も恩恵を授かっている。例えば先日、チャイコフスキーの「白鳥の湖」のある一部をアレンジしたくてスコアが見たいのだが、買ったり借りたりするよりも、このサイトにアクセスして見たい所だけダウンロードして利用。つくづく便利になったものだと思う。

これはこのサイトの使い方の一例である訳だが、その友人の話には驚いた。本当にお金がないのか、レッスン代以外にはお金をかけられない状況なのかどうかはこの際除外するとして、もう少しだけ「楽譜」というものを神聖な物として考えてくれないものか。

いや、ただ自分も真っ向からの反論者ではない。今や「紙」が地球の為にも徐々に不要とされ、タブレットで何でも事足りるようになることは、悪いことではない。実際、楽譜をiPadに転送し、それを見て演奏する友人ピアニストもいる。

DLPO(DownLoad&Printout)にしても、そういうデータにして楽譜や教則本も売り出す出版社さえ、既にある。

だが学習者が、エチュードや教則本や、芸術曲までそんな味気ない媒体で練習するとなると…何か違う。何処が変なのか…考えてみて取り敢えず思い浮かぶのは「愛着」という言葉だ。

 

自分が学生時代に使っていたとあるエチュードなどは、今や表紙も取れてすっかりボロボロになり、自分や師匠の書き込み等が入っている。今や殆ど使わないが、やっぱり捨てられない。自分がここまで来られた証でもあるからだ。

また、欲しくてたまらなかったあるフルートソロの曲など、たった2頁の見開き楽譜のくせにえらく高価だったが、一大決心して買ったものだ。その曲も今や暗譜しているので必要ないが、相当使い込んだから同じくちぎれそうな状態でも、まだちゃんとある。

20140212a

DLPO譜で育った学習者には、果たしてこのような楽譜への愛着が持てるだろうか?今はあまり感じなくとも、十年位経って昔の自分を振り返って来た際にどう思うだろうか?単なる「書き込み」の話ではない。DLPO譜は勿論、タブレットでさえも書き込みはできるであろうし。

でも若いうちはやはり「本」で勉強してほしいものだ。曲の進み具合、例えば今この本のどの辺りをさらっているのか、または演奏しているのかみたいな、楽譜としての「本」を手に取った時の感触、そして次第に使い込んで汚れて来る様を見るのは、具体的には説明しがたいが、成長の上ではもの凄く大切な事のような気がする。

音楽は身体を使って身体で表現するものだから、楽譜も身体で感じてほしい、そういう事だろう。

 

まあ、プロになってからは、もうどうでもいい。むしろ「電子液晶譜面台」とかあれば凄く便利で良いなあと思ったりする。

尤も本番中に画面がフリーズするアクシデントも絶対にあり得ると思うので、やっぱり紙の方が安心して演奏できるんだろうなと想像するが。

 


カテゴリー: 感想・意見, 楽譜・譜例 タグ: , パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください