伯父の思い出

(前記事の続き)

伯父は且つて国鉄の職員だった。自分の実家は埼玉県内の線路沿いにあり、そのせいか子供の頃はちょっとした“鉄”(鉄道マニア)だった。“鉄”にとっては国鉄職員なんて、もう憧れの的である。ましてや伯父は運転手で、当時はL特急「あさま」や「白山」で上野〜長野間を何往復もしていた。昔は蒸気機関車の機関士でもあったと言う。伯父の顔が幾分赤ら顔だったのは、所謂“石炭焼け”なのだそうである。

自分が小学生の頃の正月の或る日、家族で浅草界隈に出かけた際、丁度始発の「あさま」の運転手として上野駅に来ていた伯父と合流する機会があった。その出発ホームにて(今では多分大問題になってしまうかも知れないが)その伯父の粋な計らいで自分を一瞬その「あさま」の運転席まで招待して貰えた事がある。もう嬉しくて嬉しくて、天にも昇る気持ちだったのを憶えている。

夏休みの度に長野の本家に遊びに行き、3人の伯父の息子、つまり従兄弟達とよく遊んだものだ。高校以降はもう殆ど行く事はなかったが、大人になってから近くで演奏の仕事がある時などは、たまに立ち寄って一緒にお酒を飲んだものだ。伯父は酔うと呂律が回らなくなって何を言っているのか解らなくなり、そのうち説教が始まる。「ヨッジ!お前は云々」この「ヨッジ」という自分の呼び方がまさに父のそれにそっくりだったが、そんな事に関係なく自分はこの伯父が大好きで、心から尊敬していた。

伯父にとって父は最愛の弟だったが、その父が十数年前に兄貴の俺より先に逝ってしまったと、伯父は当時もの凄く落ち込んでいたそうだ。変な話だが、自分の顔は最近どうもその父に少し似てきたよう思える。今夏、伯父が倒れたと聞いて病院に駆けつけた自分を見て、伯父はもの凄くびっくりした表情だった。今思えば、既に意識朦朧として意思疎通の困難な状態だった伯父は、あの時の自分が父に見えたのかも知れない。弟があの世から心配してやって来たのかと。で、その時はまだ退院・回復の兆しがあったので、ひとまず安心して手を握り合って帰って来たのだが、結局これが今生の別れとなってしまった。とても残念である。

伯父は書道も嗜み、毎春の年賀状は毎年達筆な毛筆で送られて来た。様々な面で自分の手本である方だった。自分も少しは伯父を見習って、ちゃらんぽらんな生き方から脱却しなければ…と、つくづく思うのである。

どうか安らかにお眠り下さい。湯本延雄様。


20年程前の伯父と私


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伯父の葬儀

父方の伯父が他界した。父の実家、つまり本家は長野にあるが、その本家の長男にあたる方で御歳88、本来なら米寿のお祝いをすべきであったのだが…脳梗塞で倒れ、やがて逝ってしまった。

何はともあれ、早速北陸新幹線「かがやき」に乗り込む。昔だったら信越本線のエル特急「あさま」で4時間位かかったのだが、現在は半分の2時間後にはもう葬儀場に着いていた。

で、ここから後がいちいち初めて経験する事ばかり。

先ず、親族控室…だと思うが、控室なのに祭壇と棺桶が備えられ、当然伯父が寝ている。棺桶には蓋も「守り刀」もなされていない。そうこうしているうちにお坊さんが突然現れ、「お剃刀の儀」という儀式がなされる。故人の額に(切れない)カミソリをピッとあてがう、という所作だ。

この時点で解る方には解るだろうが、この長野の本家は「浄土真宗」なのだ。この宗派に則ったお葬式は実に変わっていて、「人は誰でも死んだ途端に仏になる」という考えの元に進められる。まあ、考えようによっては至極合理的で、49日もこの世を彷徨う事なく、さっと極楽浄土に行ける方が故人には嬉しいだろう。という訳でこの日はお通夜だったが、翌日の告別式までにご遺体はもう荼毘に伏しちゃうそうである。

さて「お剃刀」の後、会場はやっぱりここのままで、テーブルのみサッとどかして別のお坊さんがやって来て、間もなくお経が始まる。浄土真宗のお坊さんは剃髪しなくても良いそうなので、ハゲではなくきちんとした髪型をしている。配られた経典で途中から唱和させられるが、これがもう、やたらと長い。お経というよりは寧ろ“歌”で、「南無阿弥陀」という四七抜き調のメロディーがロンド形式のように出てくるが、ちょいちょい旋律に変化があり、それは“歌詞”の脇にある「√」とか「⧙」みたいな記号で示されていて、それは唱えているうちに解読できた。

それにしてもとにかく長い。終わってみれば結局延々40頁以上あったか。お焼香は途中で焼香台が回って来て、座ったまま済ませる。このお経、ちょっと息が上がる位キツかったので、ご年配の親戚などは尚更だったであろう。

その後のお斎(通夜振舞い)の会場は流石に別室であったが、係りの人が「男性の方々、ちょっと手伝って下さい」と言うので何?と思ったら、棺も一緒に移動だそうだ。つまり、お斎には伯父も(棺のまま)同席である。故人の写真のみが飾られているお斎はよく経験しているが、これもまた珍しい光景であった。

帰り際、そういえばまだお香典を出していない事に気づいた!そう、普通葬儀会場にあるべき「受付」というものが無いのだ。なので喪主(従兄弟)に直接渡して帰路に着く。明日の告別式には、祭壇にはそういう訳でお骨がチョコンと置かれている事であろう。

(次記事に続く)


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東山魁夷展〜北欧の風景

(前記事:新国立美術館での東山魁夷展の続き)

1962年(昭和37年)54歳の時に東山氏は北欧4ヵ国の旅に出る。その数ヶ月の滞在期間中の彼の絵もまた、目を見張る程の美しさだ。『東山魁夷&北欧』というコラボレーションは、もう最初っから神様が決めていた、とさえ思える程のベストマッチングだと思う。

その昭和37年(実は自分が生まれた年である)に、スウェーデンにて描かれた「映象」が先ず印象的だ。

この怖い程幻想的な色合いは、夜でも明るい北欧の夏でなければ観る事はできないだろう。自分がこの世に生まれ出る頃、こんなに凄い絵を描いていたのか…と感慨深い思いである。

そして、この絵のタイトルはまさに「白夜」だ。

同じくスウェーデンの風景。これも本当に、本当に美しい絵だ。同じく日本の何処にも、こんな色の風景はないだろう。

そして、一連の北欧シリーズのコーナーで自分が最も感動したのが、この「白夜光」。

ここがフィンランドだという事は、何だか解説を見なくても解るような気がする。まるでシベリウスの音楽が聞こえてきそうな寂しい風景だが、東山氏はきっと彼の音楽は聞いているに違いないと思う。

ところでこの絵の場所は、フィンランドのクオピオという所。昔、クオピオのオーケストラが来日した時に、自分はエキストラでピッコロを吹いた事があるが、オケの人達の大らかな人間性は、やはりこの土地が育んできたものなのだな…と改めて思った。

殆どの彼の作品は、とにかくもの凄く大きい。会場の壁一面に掲げられた作品がいちいちドドーッと目に飛び込んでは、観る人の心を奪って行くのだから、もうたまったものではない。

しかし一方、小さい、というかA3位の普通のサイズの絵画もかなり多く展示されていた。氏が北欧からの帰国後、京都をテーマに書き続けた「京洛四季」シリーズで、自分が目にするのは今回初めてだが、これがまた一枚一枚、観る度に癒される実に素敵な絵であった。

是非多くの方々に鑑賞して頂きたいと思う。

 


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東山魁夷展〜時の流れ

今現在、新国立美術館にて「生誕110年記念〜東山魁夷展」が開かれている。昔からの大ファンなので、昨日ここぞとばかりに足を運んで来た。

東山魁夷氏の日本画には1981年、自分がまだ18歳の時に国立近代美術館での同展覧会にて初めて遭遇し、心を奪われた。帰ってから早速画集を買い、じっくり鑑賞したものである。

その画集の中にはスケッチや画集も収められているが、その中に「布留の森」(1972年)というタイトルのついたスケッチがある。

1980年、76歳の時に、かの有名な唐招提寺御影堂の障壁画を完成し、奉納した東山魁夷氏は、その後嘗ての風景画やスケッチを元に、特定の場所ではなく自分の心の中に浮かぶ光景を描くようになった。昨日の展覧会では、それらがまとめて展示されているコーナーがあったが、その中の作品の一つがこれ。


「秋思」1988年作。

そうか、あのスケッチがこのように蘇ったのか…改めて感激である。

東山氏はその後1999年に90歳で他界。自分が国立近代美術館にて初めて一連の絵画に遭遇した頃から氏が亡くなる約17年の間に、(当然ながら)このように更に新しい作品が次々に生まれ出ていた訳で、今回はそんな歳月の流れを実感した展覧会でもあった。

この17年間での新作、つまり今回自分が初めて目にした絵画のうち、特に印象に残ったものは…


「静唱」1981年作


「行く秋」1990年作

だが実は自分が最も好きな東山氏の絵画は、自分が生まれるはるか昔の作品「残照」だ。


1947年作。自分もなんとこれを模写した事があるが、今それが何処にあるのか…多分捨ててしまったかも知れない(あまりに酷いので)。

この展覧会は12月3日まで開催されている。


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見事にやらかしちゃった人

先日、某楽器店のフルート・フェアの一環で、アマチュア・アンサンブル・コンテストがあった。

数年程前から、このコンテストに参加するひとつの団体の為に自分は自作を作ってきた。最初の2回は組曲「グリーン・ゲイブルズ」(赤毛のアンを題材とした曲)からの抜粋、3回目は「影」という曲を書き下ろした。それぞれ「愉しい曲」「美しい曲」「カッコイイ曲」等のコンセプトを基に作ってきたが、今回は「面白い曲」を作ってみた。

さて今回、コンテスト用に作曲するにあたって、実は自分はあるトラップを仕掛けたつもりだった。曲名は『ブランデー・ミルク協奏曲』。何となく題名がかの名曲「ブランデンブルク」に似ていることに気づかれたと思う。その通り、これはパロディーである。このバッハの全6曲から成る曲集の中でも、特に印象的な部分をピックアップし、ピッコロとアルトフルートを前に出し、普通のフルートのアンサンブルが伴奏をするという協奏曲形態にして、面白可笑しく仕上げたつもりである。

なので、聴いていると「あ、○番の□楽章だ」「△番の◇楽章だ」と、いろいろな部分が見え隠れし、挙げ句の果てにはオルガンの「トッカータとフーガ」まで出てくる。

ところでこのコンテストの審査は、昔から(多分)プロのフルーティストで構成されている、とあるアンサンブルの方達がされているようであるが、卑しくもプロのクラシック奏者なら、ブランデンブルク協奏曲ぐらいはメンバー全員が熟知しているべきだろう。まあ別に6曲全部は知らなくとも、フルートが関わる第5番第2番、リコーダーの入る第4番位は最早ノルマ、弦楽器だけの第3番だって管楽器奏者だから知らない、なんて言ってほしくない程の名曲中の名曲だ。

で、これらの最も目立つ各所をふんだんに引っ張ってきたこのパロディーを聴いて、審査員の方々はどう評価されるのか?本コンテストでは演奏直後に審査員の一人が感想を述べられるが、それも含めて評価の度合いで、審査員の技量がある程度判ってしまうというトラップなのだ。

それではここで、本番当日のその述べられた感想を、ほぼそのまま書き出してみる。

『そうですね…初めて聴く曲ですので、何を言っていいかアレですけども、全然違う飲み物とか曲を合わせて作っていかれた、と始めに言われていたので、どういう風になるのかと思いながら聴かせて頂きまして、違う飲み物というのはピッコロとアルトフルートなのかな、と思いながら聞いておりまして、それが混ざった美味しそうな音色とかも聞こえてきましたし、凄く良かったなと思います。
あと、後ろのフルートの伴奏とソロとの対比がもっと明確に聞こえてくると、もっと面白さが見えてくるのかなと思いました。一番良かったのは、皆さんが楽しんで吹かれていたこと、それが一番印象に残っております。
なかなか難しいですけど、こういう新しい曲を私も吹いたことがあるんですけども、そこに向かう、作られた方がどういう思いで作られたかとか、考えながら、自分達でそれをこうしてみよう、ああしてみようってやりながら練習していく合わせていくっていう楽しみは、凄く楽しい時間が今日までの間に沢山あったと思います。まあ、大変な時間もあったんだと思いますけれども、でもまあ皆さん今回は少しは思い描いていたような形で表現できていたのであろうな、という風にこちらには聞こえて来た、と思っております。ですので、更には今演奏した中で、もっとこうするともっとこうできたのになという思いが皆さんあると思うので、それをもう少しこなして、またこの曲を演奏して完成度を高いものにして、聴いている人にもこんなに面白い曲があるんだ、というのを知らせて頂ければ嬉しいかなと思います。』

…まあ確かに演奏自体については、自分も同じような事を感じた。だが、やはりこのコメントには心底呆れてしまった。その程度しか聴く耳を持っていなかったのか、もしかしたら寝てたかも知れない。何を言うべきか相当困っておられたのが手に取るように判るが、少なくともこの方、原曲「ブランデンブルグ」は殆ど知らないということが露呈し『うわぁ、見事にやらかしてくれたなァ』という印象である(そもそも、ブランデーとミルクなんか混ぜて、美味しいのか!?)。

コンテストなので、一応優勝とかナントカ賞とかが貰えるが、まあアマチュアなので何賞であろうが、それはどうでも良い。演奏者の皆さんには取り敢えずやり遂げた、という思いで帰りの電車に乗れればそれで十分なのである。

だが、ふと思った。「アマチュア・コンテスト」の「アマチュア」って誰のことなのかな?と。


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