細かい音符群の重要性について


もう…毎回毎回思う事なのだが、


これは昨日の新卒者紹介定期演奏会で作曲科の卒業生によるオケ新作のパート譜の1ページ。

作曲者がどのような効果を狙っているのか知らないが、これらをきちんとさらって演奏はするものの、例えば後ろの金管がヴァーっとffを出したり、太鼓がドカンと1発やったりサスペンデッドシンバルがシュワ〜っとクレッシェンドするだけで、これらの音はほぼかき消されてしまうのである。

この細かい音列をよく見てみると、リズムの複雑さもさる事ながら、音形が単なる半音階ではなかったりする。勿論その通りには演奏するものの、こうして聞こえなくなるオーケストレーションである以上、半音であるないなんてもう殆ど意味がない。

一方、例えば一昨年前のリゲティの作品などは(全部ではないが)音を1つでも外すとオケ全体の効果が違ってくる。悪い言い方をすれば、バレるのである。リゲティだけではない、他の現代音楽、例えば武満さん伊福部さん黛さんetc…全ての細かい音符に凄い意味を感じる。

リゲティ「13奏者の為の協奏曲」より

この違いは一体何なのだろうか?

オーケストラ曲を書いて実際に演奏してもらう事など、それこそ初めてか何かなのだろう。やはり経験の差か?

経験といえば、こちらだってこのような学生の書いたオケ曲をもう100曲近く演奏している。ので、楽譜を最初に見た段階で、このパッセージはどんな役割なのか、目立つのか目立たないのか、何となく想像できるようになった(ヤマが外れる事もごくたまにあるが)。

ただ、作曲科学生がオケ作品を書く事については、ちゃんと試演会が冬に1回あるし、また、スコアを(畏らく経験豊富な)先生が見ていろいろアドヴァイスを与えたりする機会も必ずある筈。「これじゃバランス悪いよ」とか教えてあげたりしないのだろうか?ちゃんとレッスンしているのかどうか疑問な曲がこれまでに多過ぎる。現在では楽譜はパソコンで作る学生も多いと思うので、ちょっとした修正、音符のコピペ等は訳無かろう。

新卒の作曲家といったってこれ法律上の事で、所詮は先月まで学生だった若造。若気の至りだと思うが、これまでも微分音とか特殊奏法とかの効果ばかり狙い過ぎて、「綺麗な音」「美しい音楽」とかをもう忘れかけていて、その結果オケもお客さんも『?』で終わるという作品ばかり。先述の大作曲家達の作品をよく聴き研究し、その成果を活かして、是非吹き甲斐のある曲を作って頂きたいものである。


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ウルトラマンとウルトラセブン

約1年程、テレビ埼玉にて毎週金曜日の夜に再放送していた「ウルトラマン」が今日4月13日に最終回を終えた。もう50年も昔の初代ヒーローだが、懐かしくて何となく観続けてしまった。現代の感覚で観るともう突っ込みドコロ満載で、それがまた面白いのだが、時折何と未だに覚えているシーンが出てきたりするので、妙にノスタルジックになる瞬間もあった。

ところで、折しもこの4月13日は母の命日でもあるが、「〜マン」の最終回も何だかジーンとしてしまったが、それ以上に感動的なのが「〜セブン」の最終回:第49話「史上最大の侵略・後編」。これはマニアの間では歴史的名作と言われている。で、当時これを観ていた母が息子(自分)の前で大泣きしていたのを思い出した。

それは、モロボシ・ダン隊員が同僚アンヌ隊員に告白する場面。「僕はね、人間じゃないんだよ。M78星雲から来たウルトラセブンなんだ!」途端にシューマン作曲ピアノ協奏曲の冒頭BGM。要するにもう故郷に帰らなければならないという事で、この画面。

そうこうして、明けの明星に向かって帰郷するセブンに走るダンの映像が重なる最終シーン。

これを観ていた母親は当時未だ30歳手前だったと思う。クソガキだった自分は何でこんなに泣くのか解らず、そんな母を笑っていた記憶がある。

そしてあれから40年以上経った。ネット社会になり、YouTubeという“神サイト”が現れ、改めてこの動画を観た自分がその時の母親と同じ状態になってしまった事は、言うまでもない。


今日は家内、妹とお墓参りをして来た。天国に旅立ってはや21年、命日の度にこんな風にいろいろな事が思い出されるものである。


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子供達の名演と満開の桜

考えてみれば年が明けてから今日までの間に、これまでになく沢山の小・中学生達の演奏に触れてきた気がする。早いところでは先月初旬の「さいたま市ジュニアソロコン」、そして最近では一昨日の「藝大ジュニアアカデミー第1期生成果発表会」。前者と後者では楽器もレヴェルも違うが、目標に向かって只管突き進む意気込みはまさに皆〜んな同じで、それにひきかえ最近の自分はどうだ!?と、改めて自省する思いでもある。

その28日の「ジュニアカ」では、「早期教育プロジェクト」の一環として、全国から集められた中学生達が奏楽堂で発表会をする。前半は無伴奏やピアノ伴奏やアンサンブル、そして後半はGフィルの伴奏でコンチェルトが3曲。指揮は高関健教授。ざっと下記のようなプログラム。

1.トランペット独奏/アーバン:主題と変奏
2.ヴァイオリン独奏/バッハ:無伴奏パルティータより
3.ヴァイオリン&ピアノ/メンデルスゾーン:協奏曲より
4.ピアノ独奏/バッハ:イタリア協奏曲
5.ピアノ独奏/シャブリエ:牧歌 他
6.ピアノ独奏/シューマン:ソナタより
7.ピアノ独奏/ショパン:バラード第3番
8.金管五重奏/ミラー:スペイン風小品集より

9.エルガー:チェロ協奏曲より
10.ラロ:スペイン交響曲より
11.ショパン:ピアノ協奏曲第1番より

その全てを聴いた訳ではないが、とにかくどの演奏も素晴らしかった。自分は目が悪いので、その弾く姿を見ているとちょっと小柄な芸大生の実技試験やモーニングコンサートかと思える程であるが、実は皆中学1〜2年生!将来がますます楽しみである。


さてこの日はそんな訳で自分もGフィルの伴奏で吹いたのだが、出番まで結構時間があったので、例年より1週間以上も早い桜の満開を眺めるべく、裏の寛永寺&谷中霊園へ。

2017年度の最後にその幾つかをここにアップしておこう。


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全員が息切れ

先日3月24&25日に開催された「現代舞踊協会」の公演は、2日共大入り満員の大盛況であった。演目は2つあり、前半がストラヴィンスキーの「春の祭典」をBGMとした「体」(たい)というタイトルの創作舞踊(音楽はテープ演奏)、そして後半はGフィルの伴奏による邦人作品「プロメテの火」作曲はあの「ゴジラ」の伊福部昭氏だ。

この「プロメテ〜」は全部で50分程の舞踊物語で、68年ぶりの再演だそうだが、譜面は印刷譜で手書きの書き込みもなされていたので、音楽自体は多分近年何処かで演奏されていたのだろう。4つの場面から成り、その転換部は間奏曲で繋がれるから、音楽は殆ど切れ目無しに続く。結構ハードワークな曲。

第1〜2景の疲れもそろそろ出てくる頃、パート譜も後半に差し掛かって間もなく、8分そして16分音符の音列がまるまる4ページ休みなく続くという、地獄絵図のような譜面が現れる。第3景「火の歓喜」の始まりだ。

最初はフルートとオーボエのユニゾン、次第に楽器が増えていき、最後は全体がff(フォルティッシモ)のフェルマータとなる(そもそもこの最後の音はフェルマータではなかったのだが、演出の先生が『もっと迫力を!』ってな理由で延ばすことになってしまった)。この踊りの始まりからここまで実に5分半!管楽器群が皆ゼーゼー言っている。流石にジムで走ったり泳いだりしている自分でも、この時ばかりは頭がクラクラした。弦楽器はその間何をしているかというと、ずっと同じ音符を「ザンッ、ザンッ〜」と刻みっぱなし。彼ら曰く、これはこれで大層キツイそうで、皆が「腕が痛い肩が痛い」とか言っている。

とまあこれはピットの中でのちょっとした悲鳴だが、舞台上はもっと凄かった!40人余のダンサーによる激しいダンスがこの5分間延々と続いていて、最後のフェルマータが切れた後でも緞帳が下がるまで、いや下りた後もなお踊り続けなければならないようで、ダンサー達の激しい息切れが緞帳越しにピットまで聞こえてくる。それこそ出演者全員が激しい疲労に見舞われる瞬間であった。そんなに疲れていないのは寧ろ指揮者独りだけであろう。

だが一方で、よくまあゼロからこんな音符群が頭に湧き出てくるものだと感銘を受けていた。ストラヴィンスキーも凄いが、伊福部氏のこの発想力にも(演奏しながら)圧倒されていた。

本来なら前半の「春祭」でも生演奏であるべきだろうが、いかんせんこの「彩の国さいたま芸術劇場」のピットにはこの曲用の5管編成のオケは狭過ぎて入らない。仮に入ったとしても予算的な事情もあるだろうし。

「体」(春の祭典)

「火の歓喜」〜「プロメテの火」

とにかくこの2つの演目、実に素晴らしかった。現代舞踊の面白さを再認識する良い体験であったと思う。


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人生を語る音色

先月開催された「プロのアドヴァイスがもらえる発表会」の参加者の中にお一人、とある高齢のご婦人がいた。その方、実は翻訳家だそうで、終演後にご自身が翻訳された小説の文庫本を頂いたので早速読んでみた。それがこれ。


なんとこの小説、2016年に『本屋大賞』(翻訳小説部門)1位を獲っている。

とある離島にただ1軒だけある本屋の店主の半生と、彼をとり巻く人々の人間模様を描いた作品で、読んでいるうちにどんどん引き込まれていき、読み終わった時にはとても感動して胸が熱くなりさえした素晴らしい物語。詳しい内容は割愛するが、一つ感じたのは何となくここの主人公:A.J.フィクリーが自分に似ているなということ。それは、ある場面に直面した時に、もし自分だったら同じ行動をとるとらないとかいう事ではなく、主人公の台詞の奥底に時折見え隠れする深い気分みたいなものに妙に共感するのだ。

言語はどんな風に表現されているのだろう?とにかくそれを日本語の持つ“わび・さび”的な色合いを含む言葉に替えていく作業はそうた易いことではない筈だ。思うに、人の人生の物語を書いたり訳したりするには、ある意味それ以上の人生経験が必要かも知れない。顧みれば先日の「プロのアドヴァイス〜」でのこの翻訳者の方のピアノは、演奏自体は多少は辿々しくもその鍵盤のタッチは、一音一音そんな人生経験が感じられるとても美しい音色だったのが改めて思い出される。

ところで「離島の本屋」なんて言うと、かなり昔の物語かと思いきや、意外と舞台は現代で、GoogleとかSkypeとか出てくる(笑)そんな中、この店主が電子書籍のタブレットを(当然ながら)揶揄する場面が出てくるが、考えてみれば自分もここ数年“紙の本”なんて読んだことがなかった。ましてや外国の小説なんて、昔シドニィ・シェルダンにハマったことがあったが、それ以来もう20年以上は触れていない。今回とてもいい本に巡り会えたので、これを機会にまた和洋様々な小説を読んでいこうと思う。


家では練習やらアレンジやらで読む暇がないので、読むのは専ら通勤の車内。周りが(ほぼ全員!)スマホをこすっている中、独りだけ文庫本を読んでいる自分はなかなか嫌いではない。


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